特集 ウィーン 音だより

(4) コルンゴルトとウィーン

14区のコルンゴルトガッセ Korngoldgasse は、実はエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトではなく、父ユリウスに因んで名付けられました。 隣町との境の近くに位置するこの付近は郊外の新興住宅地で、それぞれの通りにはウィーンゆかりの有名人の名が付けられているようです。 もともとウィーン市内ではなかった場所なので、当然ながらコルンゴルト一家がここに住んでいた…というようなことはありません。

神童の誕生
ユリウス・コルンゴルト
父ユリウス
1881年のウィーンにひとりのユダヤ人の青年が降り立ちました。名前はユリウス・コルンゴルト。チェコのブルノから法律学を修めるためにやってきましたが、じきに「音楽の都」の熱気にあてられ、音楽院に通い始めます。 尊敬する作曲家はシューマンとモーツァルト。ピアノの腕を上げましたが、音楽家として身を立てるほどの才能はなく、法律の博士号をとって故郷に戻りました。
しかし運命が彼を音楽の都に再び呼び寄せます。ブラームスの交響曲第4番を賞賛する匿名記事を新聞に投稿したところ、これが作曲者本人の目に触れます。 「ブラームスはあなたの記事を読んで大変喜んでいます」という手紙を、新聞社気付で送ってきたのは批評家エドゥアルト・ハンスリックでした。
ハンスリック
ハンスリック
ハンスリックはウィーン楽壇で、保守派批評家の代表的存在でした。ブラームスを強力に擁護し、リストやヴァーグナーなどの進歩的な「新ドイツ楽派」を筆鋒鋭く攻撃して、 音楽界を「急進 VS 保守」の2派にわけて争わせた張本人でした。ヴァーグナーは楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に、ハンスリヒという名の無能な書記を登場させましたが、 これはもちろんハンスリックへのあてこすりです(この登場人物名は後に「ベックメッサー」に改められました)。
やはり法律家出身だったハンスリックはユリウスを気に入り、巨匠ブラームスに紹介し、またたびたび自宅に招いてピアノを弾かせました。 彼らとの交友を通して、ユリウスは「音楽は『神聖な芸術』である」という確信を深めていきます。

1888年に結婚、2人の息子をもうけました。長男はシューマンに因んでロベルトと名付けられ、次男には妻の希望でファーストネームにエーリヒ、 そしてユリウスの希望でミドルネームにヴォルフガングの名が与えられました。ヴォルフガングが誰を指していたのかは、言うまでもないでしょう。
1901年、老齢のハンスリックの助手に任命され、一家はウィーンへ移住します。3年後にハンスリックが死去すると、 ユリウス・コルンゴルトは「新自由新報」の音楽評論を引き継ぐことになりました。
流麗かつ情熱的なユリウスの批評は、高い音楽的教養に裏打ちされており、その影響力で敵対者を恐れさせました。 前任者とは異なりヴァーグナーを支持していたユリウスの攻撃の矛先は、シェーンベルクを筆頭とする新ウィーン楽派に向けられました。 彼らは「神聖な芸術」を破壊しようと目論んでいる。しかしそれは個人的な好みというより、当時のウィーンの保守層の一致した見解ともいうべきものでした。 彼は客観性を貫くため特定の演奏家との交流を避け、公平性を重んじる真面目な批評家だったのです。

ユリウスの次男、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは3歳でピアノを弾き始め、6歳頃から作曲を始めました。 初めはただ喜んで眺めていたユリウスは、息子の書いた譜面を覗き込むや、その驚異的な才能に気がつき、やがて不安になります。
マーラー
マーラー
この子を偉大な音楽家に育てるには、どうしたらいいのだろうか。それは「神聖な芸術」に仕える彼の使命でした。 天才を教えられる教師は、音楽の都といえどもそう大勢いるわけではありません。ウィーンで本当に信頼できる音楽家は、ただひとりでした。
1907年、ウィーン国立歌劇場の監督を解任されたばかりのグスタフ・マーラーのもとに、10歳の少年エーリヒが父親に連れられてやってきました。 少年の作品と演奏は巨匠に強い衝撃を与えます。
ツェムリンスキー
ツェムリンスキー
「天才だ!」と叫んだマーラーは、熟慮の末、少年の指導者としてアレクサンダー・ツェムリンスキーを推薦しました。
ツェムリンスキーは作曲家としてはそれほど成功していたとはいえませんでしたが、大変優れた教師でした。 シェーンベルクやマーラーの妻アルマに作曲を教えた(そしてアルマの元恋人としても知られる)この名教師のもとで、エーリヒはめきめきと作曲の技術を向上させていきました。

デビュー
ピアノ演奏も得意だったエーリヒの創作活動は、やはりピアノ曲の分野から始まりました。「ピアノ・ソナタ(第1番)」、「ドン・キホーテの6つの小品」、 そしてバレエ音楽「雪だるま」。いずれも後期ロマン派の複雑な和声を駆使しており、10歳そこそこの子供が書いた音楽とは思えないオリジナリティを内包していました。
父ユリウスは、この奇跡を世間に公表するべきかどうか、悩みました。そうでなくても黒い噂が飛び交うウィーンの楽壇に、年若い息子を放り込むのはあまりにも危険すぎる。 かといって、このままこの神童の存在を秘匿しておくのは、
フンパーディンク
フンパーディンク
神聖な音楽芸術に対する冒涜ではないのか。
ユリウスは一計を講じます。ウニフェルサル社に依頼して、これらの3作品を「限定個人版」として印刷し、信頼する外国の音楽家たちに送ったのです。 無知な一般の愛好者や、ウィーンの敵対者たちに知られることなく、息子の才能を音楽界に知らしめる一番安全な方法でした。 楽譜を受け取ったリヒャルト・シュトラウス、エンゲルベルト・フンパーディンク、アルトゥール・ニキシュらは一様に驚嘆し、これが10代初めの少年の作品と知って戦慄しました。
ニキシュ
ニキシュ

しかし周到な作戦にもかかわらず、少年の才能を隠し通すなどということはできない相談でした。ユリウス自身のホームである「新自由新報」がこの天才少年の出現をスクープしたのです。
「雪だるま」は師ツェムリンスキーの手でオーケストレーションされ、1910年10月4日、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命名祝日にウィーン宮廷歌劇場で初演されます。
1910年のエーリヒ
1910年のエーリヒ
貴賓席には皇帝自身やベルギー国王アルベール1世をはじめ、各界の名士たちが集っていました。 著名な音楽評論家の次男坊が、親の七光りで凡作を発表するさまを見物しようと客席に座っていた聴衆たちは、演奏が始まるやいなや顔色を変え、終演後には大喝采が歌劇場を満たしました。 13歳の神童エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、こうしてセンセーショナルなデビューを飾ったのです。

ウィーン国立歌劇場
噂好きのウィーンの人々は、この秀逸な作品が「本当に」コルンゴルト少年の手になるものなのかどうか、怪しみました。 だいたい「ヴォルフガング」というミドルネームじたいが出来すぎだ。本当は父親が作曲して、息子に神童のふりをさせているだけではないのか。 ユリウスはそんな噂を笑い飛ばしました。「もし私にこんな曲が書けるなら、批評家なんかやっていないさ!」
あるいは、オーケストレーションを担当したツェムリンスキーが「本当の」作曲者で、ユリウスがゴーストライターとして雇ったのだ、という噂もささやかれました。
シュナーベル
シュナーベル
しかし、エーリヒの創作活動が進むにつれて、そのような疑いは一掃されることとなります。次作「ピアノ・ソナタ第2番」は、ユリウスはもちろん、ツェムリンスキーにさえも決して書けない、 真の天才のみが生み出しうる独創的な作品でした。この曲は後にアルトゥール・シュナーベルによってヨーロッパ中で演奏され、コルンゴルトの名声を高めることとなりました。

早熟な才能だけでなく、過干渉気味の父親を持ったことも、モーツァルトとコルンゴルトの共通点でした。ときに反発することもありましたが、 高い見識を持つ父を否定することは不可能でした。ユリウスの期待通り、エーリヒは伝統的な調性音楽の枠から外に出ることなく成長しました。
僕は自分から作曲がしたいと思ったことは一度もない。父さんを喜ばせるためにやっただけさ。
というのが、後年のエーリヒの口癖でした。
ヴァインガルトナー
ヴァインガルトナー

10代前半のコルンゴルトは、学校の休暇中の僅かな期間に次々と大規模な作品を書き上げました。大半は器楽曲で、いずれも一流演奏家の手で初演されました。 ヴァイオリン・ソナタはカール・フレッシュとシュナーベルのデュオで、「劇的序曲」はアルトゥール・ニキシュ、 「シンフォニエッタ」はフェリックス・ヴァインガルトナーが指揮を執りました。 新ウィーン楽派の作曲家ヴェーベルンは、師シェーンベルクに宛てた手紙で、
コルンゴルト少年はすべてを手にしています。出版社、演奏者、そして聴衆!  私がそれらを得る頃には老人になってしまうでしょう!
(アントン・ヴェーベルン、シェーンベルクへの手紙より)
と羨んでいます。 作曲の傍ら、父とともにヨーロッパ中を旅し、音楽界の巨匠たちの前で作品と演奏を披露して回りました。 コルンゴルトは自分よりも20歳以上も年上の先輩作曲家たちと対等な友人関係を結び、新人作曲家としての地位を着実に築いていきました。
こうしたコルンゴルトの成功はもちろん彼自身の圧倒的な才能のおかげでもありましたが、それと同じくらい、父の名声が荷担していると人々は感じていました。 それは一面では真実でした。どんなに本人に天賦の才があったとしても、ユリウスがいなければこれほど華やかな成功が訪れることはなかったでしょう。 「親の七光り」という評価は、それからもずっとコルンゴルトを悩ませることになります。

グレートル・スレザーク
グレートル
CD「ウィーン 音だより」に収録されている「4つの小さな楽しいワルツ」は1911年頃の作品と考えられています。各ワルツは三部形式で書かれており、1曲ずつに当時14歳の作曲者と交流のあったガールフレンドたちの名前が冠されています。
1曲目の「グレートル」を捧げられたのはマルガレーテ・スレザーク(1901-1953)。名テノールとして知られたレオ・スレザークの娘で、後に歌手・女優として活躍しました。優美でチャーミングな作品です。
2曲目の「マーギット」は後のコルンゴルトのオペラ「カトリーン」の台本を担当したエルンスト・デクセイの娘です。クールで繊細、幾分複雑な和声が印象的です。
ゴージャスでエレガントな「ギズィ」はジャーナリスト、フーゴー・ガンツの娘で、エーリヒの初恋の人と言われています。
最終曲「ミツィ」は名ヴァイオリニスト、ルドルフ・コーリッシュの妹で、若き日のコルンゴルトと恋愛関係にあったようです。気まぐれで生き生きした曲想は彼女の性格を反映しているのでしょうか。
しかし父ユリウスは、こうした同年代の異性との交友は、神童の成長にとって不必要かつ有害なものと考え、この作品を闇に葬り去りました。 4曲の魅力的なワルツは作曲後80年以上にわたって忘れられ、作曲者の生誕100周年の1997年に初めて出版されたのでした。

名声
6区・テオバルトガッセ7番地のコルンゴルト一家の住まい。
10代後半の創作活動は、オペラを中心に行われました。まず1幕ものの「ポリクラテスの指輪」、「ヴィオランタ」で好評を得ると、もっと長い本格的なオペラの作曲を構想し始めます。 原作に選ばれたのはベルギーの作家ジョルジュ・ローデンバックの「死都ブルージュ」。愛する妻を失って悲嘆に暮れる男の前に、亡き妻に瓜二つの女性が現れる…。 憂愁の街ブルージュを舞台に展開される悲劇です。台本を担当したのは、ユリウスとエーリヒ自身でした。父子の共同作業が世間から白眼視されるのを恐れて、 台本作家には「パウル・ショット」という偽名が与えられ、この秘密はコルンゴルトの死後まで明かされることがありませんでした。
オペラ「死の都」は、1920年に初演され、大成功を収めます。オペラ作曲家として国際的名声を手にしたコルンゴルトは、このときまだ23歳でした。

しかし、成功に伴って厄介ごとも増えてきました。
ユリウス・コルンゴルトは相変わらず「新自由新報」で健筆をふるっていましたが、その内容は公平性とは遠く隔たるものに成り果てていました。 彼の関心は、「この演奏家はエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトをどのように評価しているか」というただ一点に集中していました。 演奏家たちは作品それじたいの評価とは別の理由で、つまりユリウスの批評を恐れて、エーリヒの作品をプログラムに載せるようになります。
リヒャルト・シュトラウス
シュトラウス
息子が、自分の信じる「神聖な芸術」の類い希な使者である以上、ユリウスが過剰なまでに息子を擁護したのは当然のことでしたが、端から見れば、 親離れできていない息子と、子離れできていない父親に過ぎませんでした。ユリウスが「死の都」の演奏内容に不満を持ち、歌劇場監督の交代を紙上で主張するに及んで、 監督のリヒャルト・シュトラウスは激怒、今後二度と上演機会を与えないとエーリヒに通達します。 一番の支持者であり、共同作業者であり、擁護者だったはずの父親は、いつしか息子の「悩みの種」になっていました。
ルツィ・コルンゴルト
妻ルツィ
父子の対立は、コルンゴルトが結婚するに及んで決定的になりました。1924年4月30日、コルンゴルトはルツィ・フォン・ゾンネンタールと結婚しますが、 ユリウスはこれを認めず、二人の仲を引き裂こうと腐心しました。天才の息子に釣り合う女性など、世界のどこを探してもいなかったのでしょう。 批評家特有の辛辣さで、ルツィの家柄や行動を罵倒するユリウスは次第に疎まれ、親密だった父と子の関係は急速に冷えていきました。

1926年、あるオペラがヨーロッパ中で大旋風を巻き起こしました。「ジョニーは弾き始める」。26歳のユダヤ人作曲家、エルンスト・クレネク(クルシェネク)の作品です。 世界で初めて、アメリカの大衆音楽ジャズを採り入れた「ジャズ・オペラ」でした。翌1927年、コルンゴルトは自信作のオペラ「ヘリアーネの奇跡」を発表しますが、 「ジョニー」の陰に隠れてたいした話題にならず、また出演者をめぐるいざこざも手伝って初演は失敗に終わります。
ラインハルト
ラインハルト
こうしたトラブルは歌劇場では日常茶飯事でしたが、失望したコルンゴルトは次第に娯楽音楽に手を染めるようになります。 友人の演劇プロデューサー、マックス・ラインハルトの誘いを受けてさまざまなオペレッタを劇場用に編曲し、ヨーロッパ中を興行して回りました。 既に2人の子持ちとなっていたコルンゴルトにとっては、経済的にも有り難い仕事でした。
父ユリウスはもちろん、妻ルツィも、コルンゴルトの娯楽音楽への傾倒を快く思いませんでしたが、「父を喜ばせるため」の作曲をやめたコルンゴルトは、 「大衆を喜ばせる」ことを自らの喜びとしていたのかもしれません。

新大陸へ
1934年、ラインハルトはアメリカに渡り、ブロードウェイでメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」を上演し、ワーナー・ブラザーズを巻き込んで映画を制作するというプロジェクトを立ち上げます。 ラインハルトはアレンジャーとして、長年の相棒であるコルンゴルトを新大陸に呼び寄せました。
1930年代、ハリウッドの映画産業は上り調子でしたが、音楽は比較的粗雑なBGMに過ぎませんでした。そこへ音楽の都から、神童の名を恣にした天才がやってきたのです。 なにしろ、ウィーンの新聞のアンケートでシェーンベルクと並ぶ「現代最高のオーストリア人作曲家」に選ばれたほどの人気作曲家です。 コルンゴルトは当時ほとんど英語が話せませんでしたが、それがむしろ偉大さを際立たせるのでした。
「夏の夜の夢」のリメイクが好評のうちに終わると、方々の映画会社がコルンゴルトの争奪戦を始めます。すぐにオーストリアに帰るつもりだった彼はすべての契約を拒否しましたが、 パラマウントはそれでも食い下がり、しばらく熟考してくれと未署名の契約書を握らせて作曲家を帰国の途につかせました。

祖国には暗雲が立ちこめていました。1929年の大恐慌以来、政治は右傾化し、ドイツではナチスが政権を掌握します。 1934年にはウィーンでもユダヤ人の音楽活動が禁止され、シュレーカーやシェーンベルクは教職を追われ、ヴァルターやクレンペラーも指揮台から追放されました。 危機感を覚えたコルンゴルトはアメリカに活動拠点を置くのが賢明と考え、パラマウントとの契約書にサインして、すぐさまアメリカに引き返しました。
それからの数年間、コルンゴルトはオーストリアとアメリカを行ったり来たりしながら映画音楽の作曲に携わります。旺盛な創作力は相変わらずでした。 1935年には「海賊ブラッド」の音楽で映画を大ヒットに導きます。1936年には「風雲児アドヴァース」、1938年には「ロビン・フッドの冒険」でそれぞれアカデミー賞を受賞しました。
それまでのハリウッドの映画音楽家で、コルンゴルトほど質の高い音楽を書いた者は誰一人いませんでした。たちまちハリウッドの重要人物となり、 複数の映画会社と契約し、専用の試写室を与えられ、高額のギャラを支払われ、更には映画音楽を純音楽に使い回すのも自由という、破格の待遇を受けます。
時間と音楽の関係に特別な感覚を持っていたコルンゴルトは、他の作曲家が用いるキューシートやテンポを刻むクリックを決して使用しませんでしたが、尺はいつも完璧でした。 彼は芸術家というより、昔ながらの「音の職人」であり、映像の要求するとおりの長さと内容の音楽を、器用に書くことができたのです。 映画音楽に興味を示したクラシックの作曲家は他にもいましたが、シェーンベルクは「私の音楽に映像を合わせろ」と主張し、 ストラヴィンスキーは映画のストーリーも聞かずに勝手に作曲を始め、その譜面をスタジオに持ち込みました。彼らは当然ながら相手にされませんでした。
コルンゴルトは、映画音楽もオペラや交響曲と同じ「音楽」であるという信念を捨てませんでした。そしてその理想の高さゆえに、 質の低いハリウッド映画に曲を付けることは苦痛ですらありましたが、それでも彼の書く映画音楽は圧倒的な完成度と美しさを誇っていました。 マーラーやシュトラウスから継承された後期ロマン派調のフルオーケストラ音楽は、コルンゴルトの手によってハリウッドに移植され、現在に至るまで映画音楽全体に多大な影響を与えています。

1938年3月、オーストリアはナチスの手に落ち、すぐさまユダヤ人狩りが始まりました。予定されていた新作オペラ「カトリーン」の上演は当然中止となり、 ウィーンのコルンゴルトの自宅はゲシュタポによって接収されました。コルンゴルトは必死で祖国の長男と両親をアメリカに亡命させ、ハリウッドに居を構えます。 そしてナチスが壊滅する日まで、純音楽の筆を断ち、映画音楽だけに専念することを決心しました。父ユリウスは、終戦の年にロサンジェルスで85年の生涯を閉じました。

晩年
戦争が終わると、コルンゴルトは映画業界と訣別し、ウィーンに戻って純音楽の世界に復帰しようとしました。 ハリウッド映画の低俗ぶりにすっかり嫌気が差していたのは事実ですが、理由はそれだけではありません。
子供の頃には「父親のために」、青年期は「ウィーンの聴衆のために」、アメリカに渡ってからは「映画館の観客に向けて」、美しい音楽を提供してきたコルンゴルト。 肥満で心臓への負担が大きくなり、自らの寿命が長くないことを悟って、初めて「自分のために」音楽を書こうとしたのでしょう。 しかし、コルンゴルトが「自分のために」書いた作品は、不幸にも受け入れられることはありませんでした。
1946年のウィーンは荒廃し、かつての仕事場だった歌劇場は爆撃で破壊されていました。旧友たちは再会を喜びますが、内心ではアメリカに渡って成功したコルンゴルトを妬んでいました。
後期の重要な器楽作品、「ヴァイオリン協奏曲」や「交響的セレナード」、「交響曲」などは、ハリウッド時代の映画音楽のテーマを引用した美しい作品でしたが、 評価は散々なものでした。無理もありません。ヴェーベルンの流れを受け継ぐ前衛的なセリー主義が主流となり、ジョン・ケージの実験音楽や、 電子音楽までもが誕生しようとしていた頃、ロマンティックな調性音楽は完全に「時代遅れ」でした。ましてや低俗な映画音楽の引用など、受け入れられるはずはありません。
彼の音楽を支持する聴衆も少なくありませんでしたが、批評家の父を持つ彼にとっては、新聞の批評こそがすべてでした。 「映画に魂を売った二流作曲家」のレッテルを貼られ、作曲界から黙殺されたコルンゴルトは失意のうちに故郷を捨ててハリウッドに戻り、1957年11月29日、脳溢血で60歳の生涯を閉じたのでした。

[参考文献]
・Erich Wolfgang Korngold (Jessica Duchen, Phaidon)
©2012 佐藤卓史 無断転載禁止