特集 ウィーン 音だより
(1) モーツァルトとウィーン
今回の特集で取り上げる作曲家の名前を冠した住所プレートを、ウィーンの街中で探してみました。
モーツァルトガッセ Mozartgasse(モーツァルト小路)とモーツァルトプラッツ Mozartplatz(モーツァルト広場)は4区にあります。
「魔笛」の初演の舞台となったアウフ・デア・ヴィーデン劇場がかつて建っていた場所の近くで、広場には魔笛の一シーンを象った「モーツァルトの噴水」が設けられています。
進出
ここは素晴らしい場所です、そして僕の職業にとっては世界で一番の場所だと断言します。1781年3月にウィーンへやってきたとき、モーツァルトの身分はザルツブルク宮廷の楽士でした。 モーツァルトがウィーンを訪れるのはもちろんこれが初めてではありません。(ウィーンから故郷の父レオポルトに宛てたモーツァルトの手紙、1781年4月4日付)
神童としてヨーロッパ中を旅したモーツァルトは、少年期に何度かウィーンを訪問しています。 中でも有名なのは6歳の時、シェーンブルン宮殿で女帝マリア・テレジアの御前で演奏を行ったことでしょう。 演奏が見事だったのは言うまでもなく、女帝の膝に飛び乗ってキスをしたとか、滑って転んだところを助け起こしてくれた王女マリア・アントニア (後のフランス王妃マリー・アントワネット)に「君はいい人だ。将来僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったとかいう、少年のわんぱくぶりを彷彿とさせる言い伝えがいくつか残っています。
モーツァルトは短い生涯の約3分の1を旅に費やしましたが、その実態は要するに就職活動でした。 音楽家が宮廷や教会に雇用されていた時代、彼らはより条件の良い働き口を探して各地を渡り歩き、その土地の君主に謁見して回りました。 父レオポルトが企画した少年期のモーツァルトの演奏旅行はセンセーションを巻き起こしましたが、青年になってからの職探しは難航し、 結局故郷ザルツブルクの宮廷に仕えるヒラの音楽家の地位に甘んじていました。
コロレド大司教
父レオポルト
父レオポルトは音楽家がいかに不安定な職業であるか、ウィーンの聴衆がいかに移り気であるかを説いて向こう見ずな息子をたしなめましたが、25歳のモーツァルトの決意は揺らぎませんでした。
ウィーンで独立したモーツァルトは、ピアノのレッスンをしたり、サロンで演奏したりして糊口をしのぎながら、オペラの作曲に勢力を注いでいました。 この街で認められるには、何といってもオペラで人気を博さなければなりません。そうして出来上がったドイツ語オペラ「後宮からの誘拐」(K.384)は1782年7月にブルク劇場で初演され、圧倒的な成功を収めます。 モーツァルトの名声は瞬く間にウィーン中に広まりました。
絶頂
妻コンスタンツェ
「後宮からの誘拐」初演の翌月に結婚。相手のコンスタンツェ・ヴェーバーはウィーン生活の最初に滞在していた下宿屋の娘で、既知の間柄でしたが、 故郷の父はこの結婚に最後まで反対し続けました。親密だった父と子の関係は、これをきっかけにぎくしゃくしたものになってしまいますが、 楽士辞職のときと同様、モーツァルトが父のコントロール下から脱したことを示す出来事ともいえるでしょう。
コンスタンツェがよくいわれるような「悪妻」だったのかどうかはわかりませんが、少なくとも最初の数年間、夫婦仲は円満で、笑いの絶えない家庭であったと伝えられています。
CD「ウィーン 音だより」に収録されているK.333のソナタは、モーツァルトがウィーン生活を始めて3年目の1783年、初めてザルツブルクに里帰りし、ウィーンへ戻る途中で立ち寄ったリンツで書き上げられたと考えられています。
このときの帰郷でモーツァルトは「大ミサ曲」を初演、そのソプラノ独唱は妻コンスタンツェが務めました。リンツでは有名な交響曲「リンツ」をわずか3日間で作曲したと伝えられています。
ソナタは全曲を通して明るく朗らかな雰囲気に満ちており、この時期のモーツァルトの充実ぶりを物語るかのようです。 第1楽章の春を思わせるのびやかな第1主題は、先輩作曲家のヨハン・クリスティアン・バッハ(大バッハの末子)の影響が指摘されています。 穏やかな第2楽章は前楽章と同じくソナタ形式を用いて書かれていますが、時折不安定な和音が出現して聴き手をはっとさせます。 第3楽章は協奏曲風のロンド形式で、最後の部分には名技的なカデンツァが置かれています。 当時ピアニストとして大活躍していたモーツァルトが、おそらくは自分で披露するために作曲した作品なのでしょう。
ソナタは全曲を通して明るく朗らかな雰囲気に満ちており、この時期のモーツァルトの充実ぶりを物語るかのようです。 第1楽章の春を思わせるのびやかな第1主題は、先輩作曲家のヨハン・クリスティアン・バッハ(大バッハの末子)の影響が指摘されています。 穏やかな第2楽章は前楽章と同じくソナタ形式を用いて書かれていますが、時折不安定な和音が出現して聴き手をはっとさせます。 第3楽章は協奏曲風のロンド形式で、最後の部分には名技的なカデンツァが置かれています。 当時ピアニストとして大活躍していたモーツァルトが、おそらくは自分で披露するために作曲した作品なのでしょう。
一躍音楽界のスターダムにのし上がったモーツァルトは多忙を極め、1784年の春には約1ヶ月の間に22回もの公開演奏会に出演しました。
1784年の秋から87年の春までモーツァルト夫妻が住んだ家は現存しており、「モーツァルトハウス」(旧称フィガロハウス)として一般に公開されています。 ここには当時、夫妻だけでなく召使いや弟子たちも寝泊まりしていたと考えられており、ゲーム好きだったモーツァルトは客間でチェスやビリヤードに興じ、 週末には舞踏会を催すこともあったと伝えられています。
美しい衣装や装飾品を身に纏い、自家用の馬車まで所有していたという暮らしぶりは、 同時代の宮廷音楽家と比べれば贅沢極まりないものでしたが、彼にはその生活に見合った莫大な収入があり、また貴族たちと交流するためには必要なことでもあったのです。
1785年には父レオポルトがウィーンに来訪、息子の人気ぶりを驚きをもって実感することになりました。 同年6曲の弦楽四重奏曲(通称「ハイドン・セット」)を贈られた師のハイドンもレオポルトに会い、
神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は私の知る限り最も偉大な作曲家です。趣味がよく、作曲技術にも深く精通しています。
ハイドン
この訪問から2年後、レオポルトは67歳で息を引き取りました。息子の悲惨な晩年を知らずにこの世を去ったのは、彼にとって幸いだったかもしれません。
もう1つ、この時期の出来事で重要なのは、1784年12月にフリーメーソンに入会したことです。 フリーメーソンの熱心な会員であったことは、モーツァルトのその後の人生、更には死後にまで大きな影響を与えることになります。
モーツァルトはウィーンですっかり認められ、その名声は完全に定着したかに見えました。 しかし、1786年のオペラ「フィガロの結婚」あたりを境に、その人気に翳りが見え始めます。
凋落
サリエリ
モーツァルトの人気に危機感を覚えた宮廷楽長サリエリらが陰謀をめぐらし、演奏会を妨害した。
平民が貴族をコケにするという「フィガロの結婚」の筋書きが、貴族たちの反感を買った。
前年末にフリーメーソンを管理する法令が敷かれ、熱心な会員だったモーツァルトと皆が距離を置くようになった。
どの説も一理ありますが、やはり最大の理由は「ウィーンの人々が、もはやモーツァルトの音楽を理解しなくなった」ということに尽きるのではないかと私は思います。
モーツァルトは自らの作曲とピアノの腕前を披露するため、ウィーンに来てから数多くのピアノ協奏曲を書きましたが、 前年に発表された第20番(K.466)や第24番(K.491)の短調のシリアスな作風は、当時の協奏曲の典型や、ウィーンの人々が好む享楽的な音楽からあまりにもかけ離れていました。
それでもモーツァルトは大衆の好みに迎合しようとはせず、自らの内なる声に忠実に作品を書き続けました。 たとえば1788年に書かれた第39〜41番のいわゆる「3大交響曲」は、作曲の依頼や発表の場があったわけでもないのに書き上げられ、 実際モーツァルトは実演を聴かないままこの世を去ったと考えられています。このような創作態度は、当時の作曲家としては異例のことでした。
そのおかげで後世の私たちは、モーツァルト後期の音楽芸術を人類共通の財産に加えることができたわけですが、そのせいで当の本人は収入が激減し、困窮のうちに世を去った、といわれています。
ところがこの「困窮説」にはどうやらあまり信憑性がないことが最近の研究でわかってきました。
モーツァルトは最晩年に至るまで、作曲家としては充分すぎるほどの高収入を得ていたようなのです。 たとえば1787年に彼はプラハに赴きましたが、同地では「フィガロの結婚」が大ヒットし、新作「ドン・ジョヴァンニ」の初演も成功して多額のギャラを手にしました。 このような国外での評判を知り、モーツァルトがウィーンを去ってしまうことをおそれたのか、ウィーン宮廷はプラハから戻ったモーツァルトを「室内作曲家」という特別職に任命し、楽長ほどではないものの安定した年俸を与えました。 晩年のオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」「皇帝ティートの慈悲」「魔笛」の作曲料などを加えれば、 当時の一般家庭の何倍もの所得となり、モーツァルトが経済的に困窮していたとは考えられません。
ところが1788年頃からモーツァルトは友人たちに借金を申し込むようになります。織物商で資産家のミヒャエル・プフベルクに宛てた借金の嘆願書は20通あまりも残されていて、 プフベルクはその依頼に毎回応えたといいます。莫大な借金はモーツァルトの生前には返されず、未亡人となったコンスタンツェのもとには亡き夫の年収を上回る額の借財が残されました。
高収入にもかかわらず借金を重ねなければならなかった理由は、これまでいわれてきたような「夫妻の浪費癖」程度では説明がつきません。 実際、モーツァルトは1787年に「フィガロハウス」を引き払って安いアパートに引っ越しており、その頃には社交界に出入りするようなこともなかったので、かなり質素な暮らしをしていたらしいのです。
モーツァルトの多額の借金は何に使われたのか。違法な賭博に手を出したとも、あるいは秘密裏にフリーメーソンの活動資金に充てていたともいわれています。 どちらもありそうな話ですが、いずれにせよその使途は公にできない種類のものだったらしく、記録が残っていない以上、謎の解明は推測の域を出ません。
借金の額が膨らむのに伴って、体力も次第に衰え、妻との関係もぎくしゃくしたものになっていったと伝えられています。
最晩年の1791年も彼は精力的に活動を行っていましたが、9月のプラハ旅行で体調を崩したのをきっかけに11月初めから病床に伏すようになりました。 発熱と全身のむくみ、痛みに苦しみながらもモーツァルトは「レクイエム」の作曲を続け、弟子のジュスマイヤーに続きの作曲の指示を与えたりしていましたが、 ついに意識不明となり、2時間後の12月5日午前0時55分に息を引き取りました。35歳の若さでした。
そして彼の死と埋葬をめぐって、もう一つの謎が生まれることになります。
埋葬
モーツァルトの葬儀は死去の翌日12月6日、シュテファン大聖堂で執り行われましたが、それは異様なまでにひっそりとした式で、妻のコンスタンツェも姿を見せず、ごく親しい友人が数名参列しただけでした。
だいいち葬儀の場所じたいが、シュテファンのあの大きなドームの中ではなく、併設の小さな礼拝堂の中だったといわれています。それだけでなく、モーツァルトの死に際して、本来終油の儀式を授けるべき教会の司祭が現れなかったのです。 カトリック教会はフリーメーソンと対立していたため、おそらく熱心なフリーメーソン会員だったモーツァルトを教会側が疎んじたのではないかとみられています。
プラハの聖ミクラーシュ教会。
ウィーンではほとんど話題にもならなかったモーツァルトの死を、最も悼んだのはプラハの市民でした。
死の9日後、この聖ミクラーシュ教会で世界で初めてモーツァルトの追悼ミサが行われ、3000人もの人々が訪れたと伝えられています。
数ヶ月前まで精力的に働いていた35歳の男性が突然発病し死去したこと、そしてその不可解で性急な埋葬の状況などから、モーツァルトは毒殺されたのではないかという噂がその後ウィーンを飛び交うようになります。 才能に嫉妬したサリエリか、借金を背負いきれないと恐れたコンスタンツェ、
ウィーン中央墓地の名誉区中心部、ベートーヴェン・シューベルトの墓の手前に設立されたモーツァルトの記念碑(左)と、
打って変わって何もない区画にぽつんと寂しく立っているザンクト・マルクス墓地のモーツァルトの墓(右)。
現在ザンクト・マルクス墓地には「モーツァルトの墓」と呼ばれるモニュメントが、また中央墓地の名誉区にはモーツァルトの記念碑が建っていますが、 そのいずれの下にもモーツァルトが眠っているわけではありません。それでも世界中から集まるファンによって、その墓の前には花が手向けられ続けています。
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