新春特別企画2015 Vol.3 フランス・アメリカ・日本の作曲家たち

デュカス
ポール・デュカス(デュカ) Paul Dukas (1865-1935)…生誕150年
フランスの作曲家。銀行家の息子としてパリに生まれるが、幼時は特段の楽才を示さず、病気療養中の14歳のとき初めて作曲を試みる。 1881年パリ音楽院に入学、ローマ賞に挑戦するも僅差で逃し、落胆して1889年音楽院を退学。兵役を経て再び音楽の道を目指し、作曲家・批評家としてのキャリアが始まる。 1892年、序曲「ポリュクト」がラムルー管弦楽団で初演され注目される。もともと1曲に1年以上を要する寡作家だったが、批評家としての厳しい眼は自作にも容赦なく向けられ、 ほとんどの初期作品や未完作品が破棄されたため、生涯に発表された作品はわずか13曲に過ぎない。 しかしそのいずれもが極めて高い完成度を誇り、同時代のあらゆる作曲家から敬意を集めた。 作風はベートーヴェンやフランクの重厚な構築感と、印象派風の繊細で色彩豊かなモダニズムを融合させた独特のもので、晩年にはフランス芸術院会員に選出される。 パリ音楽院とエコール・ノルマル音楽院で教鞭を執り、メシアン、デュリュフレ、ロドリーゴ、ミヨーをはじめとする多数の生徒を育てた。 代表作にハ長調の交響曲、管弦楽曲「魔法使いの弟子」、オペラ「アリアーヌと青髭」、ピアノ・ソナタなど。
音楽史上、最も寡作な大作曲家といえるデュカス。音楽院時代からの友人ドビュッシーが「作曲法講義に等しい」と脱帽した傑作「魔法使いの弟子」が、ディズニー映画「ファンタジア」に使用されて有名になりましたが、そうでもなければ知る人ぞ知る存在だったかもしれません。 ピアノ曲は大作「ピアノ・ソナタ」「ラモーの主題による変奏曲」のほかに小品が2つ残されていますが、そのうちの1曲をお聴きいただきましょう。 1909年のハイドン没後100年記念の雑誌企画で、ハイドンの名前HAYDNを「シラレレソ」という音名に変換し、この主題を用いた作品をという委嘱に応えて書かれたものです。 ドビュッシーの「ハイドンを讃えて」やラヴェルの「ハイドンの名によるメヌエット」も同じ機会に作曲されましたが、洒脱そのものの2曲に比べると、こんなときにも晦渋な姿勢を崩さないデュカスの個性が際立ちます。
play デュカス:ハイドンの名による悲歌的前奏曲 [4:29] 詳細情報

カウエル
ヘンリー・カウエル Henry Cowell (1897-1965)…没後50年
アメリカの作曲家。10代半ばで独学で作曲を始め、1914年カリフォルニア大学に入学、シーガーに師事。 ニューヨークで作曲家・ピアニストのレオ・オーンスタインに出会い、ピアノの鍵盤を前腕などで押し下げ音塊を奏する「トーン・クラスター」の技法に開眼。 1917年故郷カリフォルニアの神智学団体のために作曲した「マナナーンの潮汐」で全面的なトーン・クラスターの実験を行う。 その後ポリリズムの研究に興味を示し、電子楽器で有名なレオン(レフ)・テルミンと共同で電気リズムパターン製造機「リトミコン」を製作。 ヴァレーズ、チャヴェスらとともに「パンアメリカン作曲家協会」を創立、またベルリンで民俗音楽学を修めるなど精力的に活動したが、1936年未成年男子への性的虐待容疑で逮捕、収監される。 受刑者たちとバンドを組み、獄中で演奏して話題を呼んだが、出所後は精神的に荒廃、保守的な作風に転じ、以降アメリカ民謡にも素材を求めた。 非西欧音楽をヒントにアメリカ近代音楽の進むべき道を示し、理論書「新しい音楽の源泉」などで後進に多大な影響を与えた。 1000曲以上の作品を残した多作家で、門人にはガーシュウィン、ジョン・ケージ、バート・バカラックらがいる。
カウエルの母親はアメリカの最初期のフェミニスト小説を著したボヘミアン作家でした。両親は6歳のときに離婚しますが、カウエルは母親から先進的で自由な気風を受け継ぎ、またアイルランド系の父親の影響で民俗音楽の多様性に触れます。 ヨーロッパの秩序を根本から否定する、新大陸アメリカの音楽に先鞭をつける役割は、そんな出自だからこそ可能だったのでしょう。 ヨーロッパの前衛に対抗する現代音楽のもうひとつの潮流「実験音楽」は、アイヴズやカウエルらの「ウルトラモダニスト」の流れから発生したのでした。 カウエルは1957年に日本を訪れ、雅楽にインスピレーションを受けて「ONGAKU」という作品を作っています。
play カウエル:浮遊 (Floating) [2:18] 詳細情報

山田耕筰
山田耕筰 (1886-1965)…没後50年
日本の作曲家、指揮者。姉の夫エドワード・ガントレットに音楽の手ほどきを受ける。1908年東京音楽学校声楽科を卒業。 三菱財閥総帥岩崎小彌太の援助を受け1910-13年ドイツ留学、ベルリン音大で作曲を学ぶ。 帰国後オーケストラ創設を目指し、岩崎の支援で1914年東京フィルハーモニー会管弦学部を結成するも山田の不倫騒動で頓挫。次に近衛秀麿と日本交響楽協会を組織するが内紛で瓦解。 失意のどん底で100曲の童謡を発表し、このうち「赤とんぼ」「この道」などは名曲として現在も歌い継がれている。 度重なる海外公演で作曲家として国際的に知られるようになり、1936年フランス政府よりレジオンドヌールを受勲。 同時期軍部に接近し、戦時中は軍装帯刀で「音楽挺身隊」を率い軍歌を演奏、過激な国粋主義や反米・反ユダヤ主義的発言を展開し、戦後評論家山根銀二から戦争責任を追及される。 1948年脳溢血で倒れ、身体の自由を失ってからも指揮者・指導者として活躍、日本の音楽界を牽引しその後の隆盛を築いた功績で1956年文化勲章を受けた。 日本初の交響曲「かちどきと平和」、オペラ「黒船」など大規模な作品も手がけたが、現在知られているのは専ら歌曲・童謡で、日本語のアクセントを西洋音楽のメロディーに自然に融け込ませる作風は他の歌曲作曲家と一線を画している。 上記以外の代表作に「からたちの花」「ペチカ」「待ちぼうけ」など。
あまりにも有名な「洋楽の創始者」、その生涯を巡るカラフルなエピソードは数え切れないほどあるのですが、ここではすべて割愛して、その歌の特徴について少し解説しておきましょう。 同時代の日本歌曲、たとえば滝廉太郎の「花」「荒城の月」や、成田為三の「浜辺の歌」「かなりや」などは、一定の拍子を持っており、時に日本風の音階を用いているとはいえ、概ね西洋音楽の文法で捉えることが可能です。 その一方で、歌詞の抑揚はメロディーにあわせて不自然に歪められており、言ってみれば日本語訳詩による西洋歌曲の歌唱と大差ありません。 しかし山田耕筰の歌曲では、言葉のイントネーションを自然にメロディーに置き換えることが最優先され、西洋音楽の重要な要素である拍節感は場合によっては平気で無視されます。 次々と拍子を変える「からたちの花」はもちろん、「赤とんぼ」でさえ、すぐに3拍子の曲だと気づく人は少ないでしょう。 これは西洋音楽の枠をはみ出た、全く新しい「日本の洋楽」というべき独創的な音楽であり、日本語の発音研究など全くなされていなかった時代、おそらくは声楽家としての演奏経験から、 そのアクセントが「強弱」ではなく「高低」であるということを見抜いた慧眼は驚くべきものです。有名な「この道」を、ヴァイオリンとチェロを加えたアンサンブル編成の伴奏でお楽しみ下さい。
play 山田耕筰:この道 [3:35] (川嶋容子(Sop) 長岡秀子(Vn) 平田昌平(Vc) 佐藤卓史(Pf)) 詳細情報

いかがでしたでしょうか? 以上で新春特別企画2015は終了となります。音源と記事は1月末日まで掲載予定ですので、引き続き多くの方にお楽しみいただければと思っております。 有名無名を問わず、さまざまな作曲家の生涯のエピソードを通して、ますます音楽の楽しみが広がればと願います。
音源提供・制作に快くご協力下さいました川嶋容子様、長岡秀子様、平田昌平様、島村楽器ピアノサロン本八幡店様に心より御礼申し上げます。
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