特集 ウィーン 音だより
(2) シューベルトとウィーン
ウィーンで生まれてウィーンで死んだ作曲家は意外に少ないのですが、シューベルトはその「生粋のウィーンっ子」のひとりで、ウィーンの人々の誇りでもあります。
9区のシューベルトガッセ Schubertgasse(シューベルト小路;左)のほか、市中心部の有名な環状道路リンクの一部分はシューベルトリンク Schubertring(右)と名付けられています。
幼少期
愛するウィーンよ、ぼくの人生で最愛のもの、最も大切なものは、お前のその小さい世界の中にあるんだ。フランツ・ペーター・シューベルトは1797年1月31日、ウィーンの北西部に位置する、郊外のヒンメルプフォルトグルントという地区で生まれました。 現在の9区・ヌスドルファーシュトラーセ54番にある「赤蟹館」の、2階の1部屋がシューベルト誕生の場所です。 モラヴィア出身の父フランツ・テオドールは、故郷を離れてウィーンで小学校の校長を務めており、当時は「赤蟹館」の1階で学校を主宰していました。(1818年8月24日、赴任先のツェレスから兄フェルディナントに宛てたシューベルトの手紙)
教育者の父は、家庭内での躾にも大変厳しい人物だったと伝えられていますが、知的階級の嗜みとして自らもチェロを演奏するような好楽家でもありました。
5歳で父の小学校に入学した頃から、父や12歳年上の長兄イグナーツがフランツに音楽の手ほどきを始めましたが、すぐに驚異的な成長を見せ、2人の手には負えなくなります。 やがて指導を託された教会オルガニストのミヒャエル・ホルツァーも少年の天才ぶりに驚くばかりで、プロの音楽家になるための充分な基礎教育を施すことはできませんでした。 とりわけ演奏技術の訓練を受けなかったことは、シューベルトのその後の人生に大きな影響を与えることになります。
父は息子の楽才に喜びつつも、プロの音楽家として育てようなどとは決して考えず、自分と同じように堅実な教師の道を選ぶことを望んでいました。 エリート教育を受けるためには息子の音楽の能力が役に立つだろうと考え、音楽の勉強を奨励していたようです。
美しいボーイソプラノの声を持っていたフランツは11歳のとき宮廷礼拝堂聖歌隊員に抜擢され、同時に父の期待に応えるように、帝室寄宿制神学校コンヴィクトに入学することが許可されました。
サリエリ
1812年にシューベルトは変声期を迎え聖歌隊を退きますが、その後もコンヴィクトに留まることが許され、奨学金まで授与されることになりました(除籍とともに寮を追い払われたハイドンとはずいぶんな違いです)。 しかし音楽に傾倒するあまり、学業の成績は次第に悪化するようになり、ついに数学で落第点を取ってしまいます。 父はひどく怒り、「音楽をやめて勉強に専念するか、音楽に専念してこの家を出て行くか、どちらかを選べ!」と息子を一喝しました。
翌1813年、シューベルトはコンヴィクトを退学します。サリエリの指導も、その頃にはもう必要なくなっていたのかもしれません。
シュパウン
作曲活動の開始
コンヴィクト退学の翌年、シューベルトは父の小学校の補助教員になりますが、その仕事はシューベルトの興味を全く引きませんでした。
代わりに、旺盛な創作力がこの頃から開花するようになります。1814年にはミサ曲 ヘ長調(D105)が生家そばのリヒテンタール教会と、中心部のアウグスティーナー教会で演奏され、これがシューベルト作品の初めての公開演奏となりました。 このときソプラノを歌ったテレーゼ・グロープは、シューベルトの初恋の人として知られています。 グロープ家とシューベルト家は家族ぐるみの付き合いがあり、テレーゼはいわば彼の「幼馴染み」でした。決して美しい容貌ではなかったものの、
テレーゼ・グロープ
リートの作曲もこの頃から本格化し、リート史上に燦然と輝く記念碑的傑作「糸を紡ぐグレートヒェン」をはじめ、「魔王」「野ばら」「憩いなき愛」「死と少女」 「音楽に寄せて」「ます」などの名歌曲がこのあとの数年間に次々と生まれました。
ショーバー
マイアホーファー
シュパウンの紹介で1814年に詩人ヨハン・マイアホーファー(1787-1836)と、翌1815年には貴族フランツ・フォン・ショーバー(1796-1882)と知り合います。 とりわけショーバーはシューベルトにとって大変気の合う相手だったようで、その後何度もその宿に転がり込み、寝食を共にしました。
フォーグル
しかし一方で、父との関係は次第に険悪なものになります。
ミサ曲が地区の教会で演奏されたのは一家にとって名誉なことでしたが、シューベルトが専業作曲家になることには父は一貫して反対し続けました。 教職をないがしろにして音楽にうつつを抜かす息子に、父は我慢がならなくなり、家庭内でたびたび衝突が起こるようになります。 生きていれば仲裁に入ったであろう優しい母は1812年に他界していました。翌年父は新しい妻と再婚し、 そんなこんなで家に居づらくなったシューベルトはたびたびシュパウンやショーバーの宿に厄介になっていました。
独立
二足のわらじを履いていたシューベルトが、作曲家として自立する転機は1818年に訪れます。2月には初めて作品が印刷出版され(歌曲「エルラフ湖」、雑誌の付録として)、翌月には有料の演奏会で初めて作品が発表されました。 このとき演奏された「イタリア風序曲」は新聞でも評判となり、以降各地の演奏会場でシューベルトの作品が取り上げられるようになります。
そして決定的だったのはエステルハージ伯爵家の臨時音楽教師に雇われ、夏の間ハンガリーのツェレスに赴任したことです。 一時雇いとは言え、これはシューベルトが初めて得た音楽家としての仕事であり、これを機にようやく教職と訣別します。 これほど長い間ウィーンを離れたのも初めてのことでした。ツェレスの開放的な雰囲気を気に入ったシューベルトは、1824年にも同地に滞在し、 ここで触れたハンガリーの情緒は当時の作品に反映されています。
秋が終わってウィーンに戻っても、シューベルトは父の家には帰りませんでした。マイアホーファーの下宿に転がり込み、その後2年間にわたって同居することとなります。 「さすらい人」として方々を渡り歩く生活が始まったのです。
マイアホーファーは大詩人とは言えませんでしたが、シューベルトの親しい仲間たちの中では最も文才のある人物でした。 彼の詩から46曲のリートが生み出され、これはシューベルト・リートの中ではゲーテの68曲に次いで2番目に多い曲数です。
シューベルトのこの頃の生活スタイルは、同居人たちによって記録されています。それによると、トレードマークの丸眼鏡は寝るときもかけたままで、 友人が理由を尋ねると「寝ている間に素晴らしい楽想が思いついたときに、起きてすぐ書きつけられるように」と答えたとか。 朝9時から昼過ぎまでコンスタントに作曲机に向かい、超人的なスピードで曲を仕上げていったといわれています。
速筆のゆえか、忘れるのも早かったようで、数日前に自分が書いた作品を聴いて「これはなかなか良い曲だ。誰の作品ですか?」と尋ねたというエピソードも残っています。
生涯にわたって筆を休めることのなかったシューベルトでしたが、独立からの数年間はいくぶん作品数が減っています。
その理由の一つは、より大規模な舞台作品の作曲に力を入れていたためです。職業作曲家として認められるためには、オペラ作家としての成功は不可欠でした。 オペラ「双子の兄弟」「魔法の竪琴」、劇音楽「ロザムンデ」などは、友人たちの奔走もあって上演にこぎつけましたが、たいした評判にはならず、数回演奏されただけで打ち切られてしまいました。 その後のオペラはさまざまな理由でお蔵入りとなり、オペラの分野でシューベルトが成功する道は結局開けずじまいでした。
本人の謙虚な性格や作風も影響していたのでしょうが、何よりも、モーツァルトやベートーヴェンのような演奏家としてのスキルを身につけていなかったことは、 ウィーンで名を上げる上で極めて不利なことでした。華々しい成功の代わりに、シューベルトは私的な演奏会でリートなどを披露し、少しずつ評判を広げていくことしかできませんでした。 彼に残された時間が短かったことを知る私たちには、その遅々とした歩みは何とももどかしく感じられますが、目立つことの嫌いな彼にとっては幸いだったのかもしれません。
ベートーヴェン
この時期シューベルトは大規模器楽曲を構想しては、結局そのほとんどを完成させることができませんでした。 シューベルトの作品目録に記載されている大量の「未完成作品」について、移り気な作曲者が途中で放り出してしまったのだといわれることもありますが、 むしろ高い理想があったがために、半端な状態で完成させることを良しとしなかった結果ではないかと思われます。 その理想の高さとは、すなわち超えなければならない「ベートーヴェンの壁」の高さでもありました。 こうした模索も、少なからず作品数を減少させる原因の一つになりました。
受容
しかし一方で、シューベルトの名は着実に世の中に浸透していきました。その一つの契機は、楽譜の出版です。
ゲーテ
こうした状況にしびれを切らした友人たちは、自分たちで資金を出し合って、自費出版する道を選びました。 1821年4月2日、まず「魔王」が作品1として出版されると、私的演奏会に集まった客を中心に瞬く間に話題が広がり、楽譜は大ヒットとなります。 「糸を紡ぐグレートヒェン」作品2がそれに続き、そして作品3には「野ばら」「羊飼いの嘆きの歌」などが収められました。 この年の暮れまでにこうして20曲のリートが世に出て、その売り上げでシューベルトはこれまでの借金を帳消しにし、黒字を上げるほどの商業的成功を収めました。
好調な売れ行きを知った出版社たちはこれ以降、シューベルト作品の出版を持ちかけましたが、彼らは作曲者の純朴で控えめな性格につけ込んで、 作品を二束三文で買いたたいたり、ときに印税の支払いを滞らせたりして、莫大な利益を生んでいたようです。 それでも出版のたびに、シューベルトのもとにはそれなりの額の収入がもたらされました。
しかし彼はそうして得た不定期な収入を堅実に貯蓄したりはしませんでした。彼らは居酒屋に入り浸ってどんちゃん騒ぎをしては、そのとき金のある者が勘定を支払い、 金のない者はその恩恵にあずかるという、一昔前の学生たちのような共同生活を送っていました。 せっかくの印税収入も、こうしてあっという間に消えてしまい、シューベルトは生涯貧乏な、しかし精神的には自由で気ままな暮らしを貫き通しました。
シューベルトの才能に魅せられた友人たちの輪はだんだん大きくなり、シューベルトを囲む仲間内のパーティーが催されるようになります。 初めは居候先のショーバー家で開催されたこの集い「シューベルティアーデ」では、シューベルトの新作を中心に劇や詩が披露され、 ゲームや舞踏会が企画されることもありました。 シューベルトは特権階級に雇われるためでも、大衆の人気を得るためでもなく、こうした仲間内の楽しみのために音楽を書き続けた初めての(そして唯一の)大作曲家でした。
シューベルティアーデは晩年に至るまで開催され続け、最盛期には40名もが参加する大イヴェントとなりました。 会場はショーバー家やシュパウン家をはじめ、ウィーン市内の邸宅が中心でしたが、ときには郊外や他の街で開催されることもあり、 シューベルティアーデに赴くために心躍らせながら馬車に飛び乗る人々を描いた絵も残されています。
ナポレオンの失脚により自由と革命の夢が潰え、宰相メッテルニヒのもと反動体制が敷かれると、ウィーンの人々は苦い諦念の中で政治や理念の追求を忘れ、 身近で日常的な快適さや楽しさを求めるようになりました。こうした生活様式をビーダーマイヤーと呼びます。 シューベルティアーデは、そうしたビーダーマイヤー時代を代表する催しであり、その知的なユーモアや愉快な享楽は、突然警官に踏み込まれるかもしれない危険や憂鬱と隣り合わせのものでもあったのでした。
発病
1822年の暮れ頃、シューベルトは梅毒を発病します。梅毒は進行は遅いものの、医療技術が発展していなかった当時は原因不明の不治の病でした。同居人のショーバーも同時期に同じ病に罹っていることから、連れだっての女遊びが祟ったものと考えられています。 移り気で享楽的な性格のショーバーは、天才の寿命を徒に縮める原因を作った張本人とみなされ、後年かつての仲間たちからも非難されることになります。
シューベルトは1823年5月に入院して治療を受け、一応は症状が安定しましたが、自らの寿命がそれほど長くないことを悟ったに違いありません。
復帰後のシューベルトの創作力は、質・量ともに圧倒的な進化を遂げます。
交響曲「未完成」「グレート」、中期の大規模なピアノ・ソナタ群や「さすらい人幻想曲」、「ロザムンデ」「死と少女」をはじめとする弦楽四重奏曲、 そして「美しき水車屋の娘」を嚆矢とする珠玉の歌曲たち…。そこには、それまでの迷いと試行錯誤から脱し、自らの進むべき道をはっきりと見定めたシューベルトの姿があります。
1823年にはシュタイアーマルクとリンツの音楽協会の名誉会員に、そして1825年にはウィーン楽友協会の理事に推挙されたことは、 シューベルトが着実に音楽家としての名声を高めていたことの表れでしょう(楽友協会では、1828年3月26日にシューベルトの作品だけを集めた、生前にはただ一度だけの個展演奏会が開催されています)。 同じ頃にはフォーグルを伴って北オーストリアへ2度の旅行を行っており、そこで体験した美しい風光と情緒はシューベルトに強い印象を与えました。
しかし病は彼の体力を確実に奪っていきました。時折頭痛に悩まされ、ベッドから起き上がれない日が次第に増えるようになります。 1826年以降、シューベルトはほとんど旅に出ることもできず、ウィーンに留まり続けました。
晩年
1827年3月、ウィーンで最高の敬意をもって遇されていたベートーヴェンが56歳の生涯を閉じました。
シューベルトは病床のベートーヴェンを見舞い、巨匠に自作曲を見せたという逸話が残っていますが、真偽のほどはよくわかりません。3月29日にアルザー教会で行われたベートーヴェンの葬儀に、シューベルトも松明を持って参列しました。 最大の目標であり、そして高い壁でもあったベートーヴェンの死は、シューベルトに大きな衝撃を与えたに違いありません。 葬儀の後仲間たちとともに居酒屋に流れたシューベルトは「不滅のベートーヴェンを偲んで! そして、我々の中で一番早く彼に続く者のために乾杯!」と叫んでワイングラスを空にしたと伝えられています。 「一番早くベートーヴェンに続く」のが、他ならぬ自分自身になるということを、彼は知っていたのでしょうか。シューベルトに残された時間は、それから2年もなかったのでした。
最後の2年間のシューベルトの凄まじいまでの創作力には驚嘆するほかありません。2曲のピアノ三重奏曲、弦楽五重奏曲、ピアノのための「即興曲集」や最後の3曲のピアノ・ソナタ、 ピアノ連弾の傑作「幻想曲」、そして連作歌曲「冬の旅」と、後に「白鳥の歌」としてまとめられることになる傑作歌曲の数々。
病めるシューベルトのどこに、これほどの作品を書き上げられる気力が宿っていたのでしょうか。 普通作曲家の最晩年は病床に伏しがちで、創作力も衰えていく傾向があるのですが、シューベルトにはそのような片鱗は微塵も感じられませんでした。 シューベルトの創作の炎はどんどん燃え上がり、そして突然のごとく燃え尽きたのでした。
CD「ウィーン 音だより」に収録されている「4つの即興曲」D899は、1827年の作品と考えられています。作曲の背景に関する詳しい事情はわかっていませんが、
いくつかの曲は、この年の初夏、ショーバーとともにウィーン近郊のドルンバッハという村に訪れた際にスケッチされたと伝えられています。
当時ウィーンでは、ボヘミアの作曲家たちの自由な形式のピアノ小品が流行しており、「即興曲」というタイトルも彼らが創始したものでしたが、 この作品に「即興曲」と名付けたのはシューベルト自身ではなく、出版社のハスリンガーでした。最初の2曲は作曲の年に発表されましたが、 残り2曲は作曲者の死後30年経った1857年にようやく出版され、この際にハスリンガーは第3曲を変ト長調からト長調に、勝手に移調してしまいました。 その理由は「読譜しやすいから」というだけのことで、当時こうした小品が芸術作品というよりも、ピアノ愛好者の愉しみとして受容されていたことを物語るエピソードです。
「冬の旅」の世界を彷彿とさせる暗鬱な第1曲、流麗なパッセージと激しい舞曲のリズムが交錯する第2曲、優しく瞑想的な第3曲、軽やかに下降するアルペジオが印象的な第4曲、 いずれも肩肘を張らない、シューベルトならではの叙情性が遺憾なく発揮された佳曲です。メンデルスゾーンの「無言歌」のように、歌曲(旋律+伴奏)をピアノに置き換えるのではなく、 ここではあくまでピアニスティックな書法が貫かれており、これもシューベルトの到達した新天地ということができるでしょう。
当時ウィーンでは、ボヘミアの作曲家たちの自由な形式のピアノ小品が流行しており、「即興曲」というタイトルも彼らが創始したものでしたが、 この作品に「即興曲」と名付けたのはシューベルト自身ではなく、出版社のハスリンガーでした。最初の2曲は作曲の年に発表されましたが、 残り2曲は作曲者の死後30年経った1857年にようやく出版され、この際にハスリンガーは第3曲を変ト長調からト長調に、勝手に移調してしまいました。 その理由は「読譜しやすいから」というだけのことで、当時こうした小品が芸術作品というよりも、ピアノ愛好者の愉しみとして受容されていたことを物語るエピソードです。
「冬の旅」の世界を彷彿とさせる暗鬱な第1曲、流麗なパッセージと激しい舞曲のリズムが交錯する第2曲、優しく瞑想的な第3曲、軽やかに下降するアルペジオが印象的な第4曲、 いずれも肩肘を張らない、シューベルトならではの叙情性が遺憾なく発揮された佳曲です。メンデルスゾーンの「無言歌」のように、歌曲(旋律+伴奏)をピアノに置き換えるのではなく、 ここではあくまでピアニスティックな書法が貫かれており、これもシューベルトの到達した新天地ということができるでしょう。
この時期のシューベルトの作風を代表する作品は、何と言っても「冬の旅」でしょう。失恋した若者が死地を求めて徘徊するこの物語には、暗い孤独の影がべったりとまとわりついています。 新作を喜びとともに受け入れてきたシューベルティアーデの仲間たちも、この歌曲集は理解することができず、ただ困惑するばかりでした。 いつも仲間たちに楽しみを提供していた天才の内奥に、これほどの苦悩と孤独が宿っていたことに、誰も気づくことはなかったのです。 誰にも理解されないこの歌曲集を、シューベルトは死の床で、意識を失う直前まで推敲し続けました。
ぼくは異郷をさまよい、何年も歌い続けた。ぼくが愛を歌うと、それは苦しみになった。苦しみを歌うと、それは愛になった。ぼくはこうして愛と苦しみに引き裂かれた。父の元を飛び出し、家庭を持たず、「さすらい人」として暮らしてきたシューベルト。数多くの真摯な友情に囲まれながらも、その寂しさが癒えることはなかったのでしょうか。 友人の家を転々と渡り歩いてきた彼が最後に転がり込んだのは、最も仲の良かった次兄のフェルディナントの家でした。(寓話的断片「ぼくの夢」、1822年)
1828年の10月末、シューベルトはレストランで魚料理を食べた直後から体調を崩し、床に伏すようになります。医者の見立ては「腸チフス」、感染を恐れて友人たちが病床を見舞うこともできませんでした。
フェルディナントの家族に看取られて31年の短い生涯を閉じたのは、それから3週間もしない11月19日のことでした。
葬儀は2日後にヨーゼフ教会で執り行われました。フェルディナントはシューベルトが病の床でつぶやいた「ここにはベートーヴェンが眠っていない」という言葉を思い出し、 弟の遺体をヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の近くに埋葬することを提案し、承諾されました。
1888年の市内改造の際、ヴェーリング墓地は廃止され、ベートーヴェンの墓とともに中央墓地の名誉区に移葬されました。 生家にほど近いヴェーリング墓地は現在「シューベルト公園」と呼ばれていますが、その一角にはベートーヴェンとシューベルトの旧墓石が残されています。
[参考文献]
・作曲家◎人と作品 シューベルト(村田千尋著、音楽之友社)
・フランツ・シューベルト(前田昭雄著、春秋社)
・シューベルトとウィーン(チャールズ・オズボーン著、岡美知子訳、音楽之友社)
・作曲家◎人と作品 シューベルト(村田千尋著、音楽之友社)
・フランツ・シューベルト(前田昭雄著、春秋社)
・シューベルトとウィーン(チャールズ・オズボーン著、岡美知子訳、音楽之友社)
©2012 佐藤卓史 無断転載禁止