特別企画2014 Vol.3 アメリカ・ロシアの作曲家たち

フォスター
スティーヴン・フォスター Stephen Foster (1826-1864)…没後150年
アメリカの作曲家。ピッツバーグ郊外のローレンスヴィルに生まれる。幼時から楽才を示すが、正規の音楽教育を受けることはなかった。 大学中退後、シンシナティで兄が経営する蒸気船会社で働きながら、最初のヒット曲「おおスザンナ」を出版、ゴールドラッシュの賛歌として大人気となる。 1850年医師の娘ジェーンと結婚、「草競馬」「ケンタッキーのわが家」「主人は冷たい土の下に」「スワニー川」などの名曲を次々に発表するが、 著作権制度が確立されていない当時、受け取った作曲料はごくわずかだった。両親と兄の死による経済的困窮から妻子に見離され、単身ニューヨークに渡るも生活は荒廃。 1864年、滞在先のホテルで洗面台に頭を強打し、出血多量と発熱により孤独と貧困のうちに37歳で世を去った。死の2ヶ月後、遺作「夢見る人」が出版された。 135曲のパーラー・ソング(家庭向け歌曲)と28曲のミンストレル・ソング(白人が黒人の格好をして演技するショーの音楽)を中心に約200曲の作品を残したが、 平易で耳に残るメロディーと、当時としては珍しい黒人へのシンパシーの強さが特徴。 「アメリカ音楽の父」と称され、作品はアメリカのみならず世界中で愛唱されている。
親しみやすいフォスターの音楽のルーツは、若い頃に綿花倉庫や蒸気船会社で働きながら聴き覚えた、黒人霊歌やミンストレル・ソングだったといわれています。 「おおスザンナ」の楽譜は出版後の3年間で10万部売れましたが、フォスターが得た収入は(貨幣価値が違うとはいえ)たったの100ドル。 今でこそコピーライツにはうるさい米国ですが、建国当初はそれどころではなく、芸術音楽の伝統を持たない国で作曲家たちは苦しみました(一昨年の特集で取り上げたコールリッジ=テイラーもその一人です)。 晩年は酒浸りとなり、ほとんどまともな曲を書くことができなかったといわれていますが、その中から奇跡のように生み出された名曲が「夢見る人(夢路より)」です。 美しいメロディーをピアノ独奏用に編曲してみました。
play フォスター/佐藤卓史:夢見る人(夢路より) [2:08] 詳細情報

リャードフ
アナトーリ・リャードフ Anatoly Lyadov (1855-1914)…没後100年
ロシアの作曲家。ペテルブルクで生まれ、指揮者の父から音楽の手ほどきを受ける。ペテルブルク音楽院でピアノとヴァイオリンを学び、やがてリムスキー=コルサコフに作曲を師事。 卒業と同時に母校の教員として採用され、門下からはプロコフィエフやミャスコフスキーが輩出している。 学生時代から「五人組」の作曲家たちと親しく、五人組解散後も国民音楽の確立に尽力した。1897年には帝室地理協会の依頼で各地の民謡を採集し、「ロシア民謡集(全3巻)」を編纂。 民謡や民話を題材に採った管弦楽曲や、ショパンの影響が濃い多数のピアノ小品を残したが、怠惰な性格と自信のなさから大作を仕上げることはできなかった。 代表作に交響詩「バーバ・ヤガー」「キキモラ」「魔法にかけられた湖」など。
巧みな描写表現にすぐれたリャードフの作曲技術は、同時代の作曲家の間でも高く評価されていましたが、どうやら仕事に取りかかるのが非常に遅い人だったようです。 1909年にロシア・バレエ団のディアギレフから新作を依頼されますが、全く書き始められず、結局この話は若いストラヴィンスキーに流れて名曲「火の鳥」が誕生することになりました。 一方でこどもの頃から記憶力がよく、さまざまな話を暗記して語ったり、また画才にも恵まれていたと伝えられています。 大量のピアノ曲を残していますが、そのほとんどはあまり演奏される機会がありません。その中で一番有名なのが可愛らしい「オルゴール」です。
play リャードフ:音楽の玉手箱(オルゴール) 作品32 [1:52] 詳細情報

グレチャニノフ
アレクサンドル・グレチャニノフ Alexander Gretchaninov (1864-1956)…生誕150年
ロシアの作曲家。商人の父に逆らって17歳でモスクワ音楽院に入学、アレンスキーとタネーエフに師事。1890年ペテルブルク音楽院に編入してリムスキー=コルサコフの門下となる。 弦楽四重奏曲第1番でベリャーエフ賞、第2番でリャードフの創設したグリンカ賞を受けるなど才能が認められ、卒業後は皇帝の年金を受けながらモスクワでこどもたちの指導に当たっていたが、 ロシア革命が勃発、統制が厳しくなる中でフランスへ亡命。1939年には75歳でアメリカに渡り、市民権を獲得。ニューヨークで91歳の長寿を全うする直前まで旺盛な創作活動を続けた。 業績として名高いのはロシア正教のための宗教音楽で、4曲の「聖金口イオアン聖体礼儀」をはじめ、古来のロシア聖歌の旋律を復興した新しい聖歌を創作、 現在もロシアのみならず世界中の正教会で典礼に用いられている。5曲の交響曲、6作のオペラの他、膨大な器楽曲、声楽曲を残した多作家。
14歳になるまでピアノを見たこともなかったというグレチャニノフ。父親の反対を押し切ってモスクワ音楽院に入ったとき「音楽の知識は何も持っていなかった」と言いますが、 ペテルブルク音楽院で師事したリムスキー=コルサコフはただちにその才能を見抜き、親の援助を受けられない彼を経済的にも支援しました。 師弟の友情はリムスキー=コルサコフの死まで続いたといわれており、作品にもその影響は色濃く反映されています。 グレチャニノフが精力を傾けたロシア正教の音楽は、ソヴィエト時代に「なかったことにされた」こともあって、私たちには比較的縁遠い存在ですが (「聖金口イオアン」を何と読むかわかりますか? 「せい・きんこう・イオアン」です。詳しくは調べてみて下さい)、アメリカに渡ってまで正教典礼歌を作り続けた彼の偉業は今後ますます評価されていくことでしょう。 こども用の小品の中から1曲、演奏してみました。
play グレチャニノフ:悲しい歌 作品139-8 [1:34] 詳細情報


今年も音源提供にご協力をいただきました皆様、とりわけ長尾春花さん、studio vibrant様に心より御礼申し上げます。
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