特別企画2014 Vol.2 ドイツ・ロマン派の作曲家たち

ヘンゼルト
アドルフ・フォン・ヘンゼルト Adolf von Henselt (1814-1889)…生誕200年
ドイツのピアニスト、作曲家。バイエルン地方の小村で生まれ、国王ルートヴィヒ1世の援助を受けてヴァイマールでフンメルに師事。 1832年ウィーンに移り、ピアニストとして活躍しつつ名教師ジモン・ゼヒターのもと作曲を学んだ。1838年ペテルブルクでの演奏会が大成功を収め、すぐさま宮廷ピアニストに取り立てられる。 その才能に圧倒されたペテルブルク音楽院院長アントン・ルビンシテインにより副院長に任命され、ラフマニノフの祖父アルカディや名教師として名高いニコライ・ズヴェーレフを育て、 その後のロシアン・ピアニズムの基礎を固めた。独特の高度なテクニックを要求するピアノ曲を多く残しており、代表作に「もしも私が鳥ならば」をはじめとする練習曲、ピアノ協奏曲など。
流麗なカンタービレ奏法で、リストに「私もあのようなヴェルヴェットの掌が欲しかった」と羨まれたヘンゼルト。しかし当人は大変なあがり症で、30代半ばで演奏活動をやめてしまい、 更には創作活動まで切り上げてしまいました。そのため、比較的長命だったわりに作品数は多くなく、また音楽性も円熟に到達せず、現在は歴史上にわずかに名前が残るのみです。 教師をしながら、まるで貴族のように優雅に暮らしたというロシアでの生活は、創作意欲を掻き立てるものではなかったのかもしれません。 豊かな顔髭と尊大な物腰はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にそっくりだとよく言われたそうです。
play ヘンゼルト:ラプソディー ヘ短調 作品4 [2:04] 詳細情報

エルンスト
ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト Heinrich Wilhelm Ernst (1814-1865)…生誕200年
チェコ生まれのユダヤ系ヴァイオリニスト、作曲家。9歳でヴァイオリンを始め、神童と称される。ウィーン音楽院でヴァイオリンと作曲を学ぶ。 1828年ウィーンを訪れたパガニーニの演奏に衝撃を受け、一度は宮廷楽団に就職しようとするが、パガニーニの助言によりソリストの道を選択。 1830年フランクフルトでのリサイタルで、当時未出版だったパガニーニの「ネル・コル・ピウ変奏曲」を聴き覚えで演奏し、パガニーニ本人を戦慄させる。 以降パガニーニは決してエルンストの前で演奏しようとしなかったが、滞在先の隣室に密かに忍び込むなどして技巧の秘密を盗み取り、1837年マルセイユでの対決は聴衆を熱狂させた。 ヴィオラの演奏にも優れ、友人ベルリオーズの「イタリアのハロルド」のヴィオラソロを、作曲者本人の指揮で演奏している。 1862年神経痛のため引退し、フランスのニースで死去。ヴァイオリン独奏の超絶技巧曲で知られており、代表作に「シューベルトの『魔王』による大奇想曲」「『夏の名残のバラ』による練習曲(変奏曲)」など。
19世紀前半の「ヴィルトゥオーゾの時代」、イタリアのパガニーニがその先駆として現れ、多くの若者が彼に続こうと必死に技術を磨きました。 エルンストは、まさにパガニーニのコピーとして登場し、叙情的な演奏でその後継者・好敵手と目されましたが、パガニーニのイタリア的な明るさと新奇性に比べると、 エルンストは名前の示すように真面目(ドイツ語でernst)でオリジナリティに欠けるきらいがあり、パガニーニの影から抜け出すことはできませんでした。 後年はイギリスに渡り、ヴィオリストとして、ヨアヒムやヴィエニアフスキと室内楽を共演したと伝えられています。 数少ないピアノ曲の中から「遺作の夜想曲」をお聴きいただきましょう。
play エルンスト:夜想曲 変イ長調 遺作 [4:08] 詳細情報

シュトラウス
リヒャルト・シュトラウス Richard Strauss (1864-1949)…生誕150年
ドイツ後期ロマン派を代表する作曲家、指揮者。ホルン奏者フランツの息子としてミュンヘンに生まれる。 幼時から楽器演奏、作曲理論を学び、10代にして大規模な作品を次々と発表、評判を集める。自作の指揮がハンス・フォン・ビューローに認められ、 20歳のときにマイニンゲン宮廷管弦楽団の指揮者のポストを得る。初めは父や、親交のあったブラームスの影響のもと保守的な絶対音楽を志していたが、 やがてリスト、ヴァーグナーの流れを汲む新ドイツ楽派の標題音楽に傾倒、1888年の「ドン・ファン」を皮切りに「死と変容」「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快な悪戯」 「ツァラトゥストラかく語りき」「英雄の生涯」などの一連の交響詩を作曲。20世紀に入るとオペラ創作に注力し、「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」などを続々発表、 同時にミュンヘン、ベルリン、ウィーンの各歌劇場の音楽監督を歴任し、自ら精力的に初演に携わった。 後年は指揮活動で多忙を極め、ナチス政権下で音楽総裁に任命されるなどドイツ音楽界の重鎮として君臨したが、戦後その協力責任が糾弾される。 しかし晩年も創作力は衰えず、1948年の「4つの最後の歌」まで実に60年にわたって器楽・声楽の両分野で傑作を書き続けた。 上記以外の代表作にヴァイオリン・ソナタ、「家庭交響曲」、「アルプス交響曲」、オペラ「アラベッラ」「カプリッチョ」、2曲のホルン協奏曲、オーボエ協奏曲など。
晩年演奏旅行で訪れたロンドンで「あなたがあの『美しく青きドナウ』を作ったのですか?」と尋ねられた、という逸話が残っていますが、リヒャルトはあのウィーンのワルツ一家とは何の親戚関係もありません。 指揮者としての実践経験で体得した管弦楽法を生かして、この世のありとあらゆるものを描写し、それでいて明快で軽妙な独自の音楽語法を確立したリヒャルト・シュトラウス。 「ドン・ファン」の初演の際には保守派からブーイングを浴びたその音楽は、晩年には既に古色蒼然たるものになっていました。時あたかも無調・前衛全盛の時代。 80歳を過ぎて「今後の予定は?」と聞かれ、「あとは死ぬことかな」と答えたというシュトラウスは、ロマン派音楽の最期を看取った作曲家でした。 若き日の代表作のひとつ「ヴァイオリン・ソナタ」から、耽美的な第2楽章を長尾春花さんとの共演でお聴き下さい。
play R.シュトラウス:ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 作品18〜第2楽章 [7:46] (ヴァイオリン:長尾春花) 詳細情報
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