曲目解説  Program Notes

リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178

 自身不世出のピアニストであったフランツ・リストの唯一のピアノ・ソナタは、シューマンが彼に捧げた「幻想曲」への返礼として、1852年から翌年にかけて作曲された。 この時期リストの創作力は最も充実しており、「ダンテ」「ファウスト」の両交響曲や、数々の交響詩が生み出されている。
 すでに演奏活動を引退していた作曲者に代わり、高弟のハンス・フォン・ビューローが務めた初演は、音楽史上稀に見る大論争へと発展した。 特に1881年2月のウィーン初演の際には、保守派の批評家ハンスリックが新聞紙上に激烈な批判を発表した。 「《ロ短調ソナタ》は、ほとんどいつもむなしく動いている天才の蒸気製粉機である。ほとんど演奏不可能な、音楽の乱暴である。 私はいまだかつて、支離滅裂な要素がこれほど抜け目なく厚かましくつなぎ合わされたものを聴いたことがなかった。 これほどまでに混乱した狂暴、あらゆる音楽的なものに対する血なまぐさい闘争を、体験したことはなかったのである。…」
 しかしこのソナタは、ハンスリックが批判したような「支離滅裂」なものではなく、実際には極めて緻密で独特の構造を持っていることが指摘されている。 通常の多楽章ソナタとは異なり単一楽章で書かれているが、切れ目を持たない3つの部分に分けることができる。 それらは多楽章ソナタの「第1楽章―緩徐楽章―スケルツォとフィナーレ」に相当するとともに、ソナタ形式の「提示部―展開部―再現部」でもあるという、複雑な多重構造をなしているのである。
 第1部は調性不明のト音のスタッカートと、下降音階による不気味な冒頭主題で始まる。 第1主題は突然のffで、不吉な減7度の音程を含むオクターヴユニゾンの動機Aと、同音連打のリズムが特徴的な動機Bからなる。 オクターヴ連打などの華麗な技巧を駆使して主題を確保した後、ニ長調の第2主題では雄大で崇高な旋律が歌われる。 次いで動機Aがヘ長調で、動機Bがニ長調で登場するが、提示時の不気味さは一転し、女性的で非常に美しい音楽に変容している様は驚く他ない。 第1主題を中心に技巧的な展開が繰り広げられた後、右手のトレモロとともに冒頭主題から順に再現が行われる。 雄大だった第2主題は、低音での威圧的なトゥッティに変貌し、2回にわたって悲痛なレチタティーヴォが挿入される。 混沌の中不安定な和音で停止する。
 第2部は、そこへ救いのごとく現れる穏やかで敬虔な表情の第3主題で開始される。 官能的な姿の動機Bの後、威厳に満ちた第2主題を繰り返しながら次第に盛り上がり、第3主題が高らかに歌われる。 その後左手の和音の移ろいの上に右手が下降音階を奏する神秘的な部分を挟んで、冒頭主題が半音低く再現される。
 第3部は、第1主題による幻想的なフーガから始まり、第1部の主題確保以降がソナタ形式の定型通り再現されていく。 終盤の盛り上がりは第1部よりも熱を帯び、テンポも加速してロ長調に転調する。 この曲最大の難所、片手ずつの高速オクターヴ連打が華やかに繰り広げられ、属7の和音でついに熱死する。 長い休符の後、穏やかな第3主題が再現され、第1主題も加わりながら沈静化。 最低音域の冒頭主題に支えられつつ、5つの和音が臨終の鐘を鳴らし、静かに祈るように幕が下りる。
 深い精神性とドラマトゥルギー、そして超人的なヴィルトゥオジティが高いレベルで融合したこの作品が、リストのピアノ作品の最高傑作であることは疑う余地がない。
(2004年7月14日「絆 特別公演」プログラムに寄せて)
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