曲目解説  Program Notes

ショパン:舟歌 嬰ヘ長調 op.60

 「舟歌」(バルカローレ)は、ヴェネツィアの川を下るゴンドラの船頭が歌う歌のことである。寄せては返す8分の6拍子のリズムの上に、 伸びやかで屈託のない旋律が歌われる。
 ショパン唯一のバルカローレは、1845年から翌年にかけて作曲された。愛人ジョルジュ・サンドとの関係、持病の肺結核、すべてにおいて絶望的な状況の中にあって、 ショパンはこの世のものとは思えない美しさの極みに到達した。その雄弁すぎるほどの語り口の裏にある繊細な襞に、失われていくものへの憧れ、寂しさ、痛み、悲しみ、 孤独が織り込まれている、それがまさにこのバルカローレの姿である。
 豊潤な和声進行でひらひらと舞い降りる序奏に続き、通常の倍の8分の12拍子をとった息の長い旋律が歌われていく。最初は3度で重ねられている2声のメロディーは、 近づいたり離れたりしながら滑らかなラインを形作る。巧妙な転調で一度盛り上がった後、イ長調の中間部に入る。オスティナート風の部分に続いて、 輝かしい新主題が提示される。テンポを一段落とした経過句で再び嬰ヘ長調に戻り、主部の再現が行われ、クライマックスでは中間部での新主題がさらに輝きを増して歌い上げられる。 その後は徐々に遠ざかりながら、装飾的なパッセージが霞のように立ち上り、最後はオクターヴで決然と曲を閉じる。
 ショパン晩年の高貴な精神を宿す傑作であると共に、ピアノ演奏における高度な表現能力を要求される難曲でもある。
(2005年4月9日「佐藤卓史ピアノリサイタル」プログラムに寄せて)
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