新春特別企画2013 Vol.5 イギリス・アメリカの作曲家たち
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ジョン・ダウランド John Dowland (1563-1626)…生誕450年
ルネサンス期のイギリスの作曲家、リュート奏者。おそらくロンドンの生まれと推定される。1580年駐仏大使に随行してパリに渡り、滞在中にカトリックに改宗。
1584年帰国、1588年にオックスフォード大学から学位を取得。王室音楽家に志願したが、宗派を理由に採用されず、大陸に渡ってドイツ、イタリアなど各地を遍歴した。
1598年破格の高給でデンマーク王クリスティアン4世のリュート奏者に迎えられたが、たびたびイギリスに渡って楽譜出版などを行っては約束の期日までに戻らず、1606年に解雇。
多額の負債とともに帰国、1612年念願の王室リュート奏者に迎え入れられると、その後はほとんど曲を書かなくなった。
作品の大部分は名手ならではの技巧的なリュート曲、またはリュート伴奏付きの歌曲で、歌曲では流麗でメランコリックな旋律に乗せて愛や悲しみを歌い、近代歌曲の源流となった。
代表作「流れよわが涙」は今なおヒットナンバーとなっている。
ジャイルズ・ファーナビー Giles Farnaby (1563?-1640)…生誕450年?
イギリスの作曲家、ヴァージナル奏者。家具職人の一家に生まれ、彼自身も家具職人を生涯の本業とした。
ヴァージナル製作者だった従兄弟ニコラスの影響で音楽に開眼し、当時の職人階級では珍しくオックスフォード大学で音楽学を修めた。
1602年にリンカンシャー州に移住、地方の名士の家で執事兼音楽教師を務めたが、1614年頃にはロンドンに戻っている。
彼の作品はルネサンス期イギリスの鍵盤楽曲を集めた「フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集」に収録されており、
その技巧的な書法からウィリアム・バードやジョン・ブルらと並ぶ当代随一のヴァージナリストだったことが窺われるが、彼らと違いプロの音楽家ではなかった。
息子リチャードも数曲の作品を残している。
ダウランドは、何を隠そう私の偏愛する作曲家のひとり。その美しいメロディーはいつ聴いても心が洗われる思いがします。
ルネサンス時代、イギリスの音楽は大陸とかなり異なる発展を遂げました。その一つに、大陸では主要旋律が一番下の声部に置かれ、上の声部はその装飾という形が多かったのに対し、
イギリスでは上声に主要旋律を置いて、下の声部がそれを伴奏する、という形が生まれたことが挙げられます。
ダウランドの歌曲はその代表例ですが、これは古典派以降主流となる「ホモフォニー」(旋律+伴奏)の先駆けです。
私たちが今知っている「うた」の源流はここにあるといっても過言ではないでしょう。
代表的な歌曲「流れよわが涙」は器楽曲にも翻案され(「涙のパヴァーヌ」)、ヨーロッパ中で大流行しました。その影響力を物語るかのように、
「フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集」にはこの作品をテーマにした変奏曲が3曲も収録されています。そのうちの一つ、ダウランドと同い年のファーナビーが編曲した「涙のパヴァーヌ」をお聴きいただきましょう。
ベンジャミン・ブリテン Benjamin Britten (1913-1976)…生誕100年
イギリスの作曲家、指揮者、ピアニスト。イングランド東部サフォーク州に生まれる。幼くして圧倒的な楽才を発揮し、その才能に驚嘆したフランク・ブリッジから作曲を学ぶ。
16歳でロンドン王立音楽大学に入学、その頃既に数百もの習作を書き上げていたという。合唱曲「みどり子はお生まれになった」で注目を集め、映画音楽制作に携わるが、
第2次大戦に突き進む祖国を憂い、詩人のオーデン、テノールのピーター・ピアーズとともに渡米。1942年に帰国、良心に基づき兵役を拒否することが公的に認められる。
終戦直後に初演されたオペラ「ピーター・グライムズ」が大成功を収め、国際的名声を獲得。その後も共同作業者かつ私生活のパートナーでもあったピアーズを主役に据えた多数のオペラをはじめ、
世界的奏者との交流やアジアの音楽から刺激を得て旺盛な創作活動を展開。1948年からは地元オールドバラにて音楽祭を運営、自らも演奏者として舞台に立ち、
1967年にはスネイプ村にビール醸造庫を改造したコンサートホールを設立した。中庸を重んじるイギリス人らしく、機能和声を基調とした保守的な作風が特徴。
代表作は上記の他、オペラ「ビリー・バッド」「夏の夜の夢」、管弦楽のための「シンプル・シンフォニー」「青少年のための管弦楽入門」、「戦争レクイエム」など。
2008年に紹介したパーセルの早世以降、自国の作曲家をなかなか輩出できなかったイギリス。19世紀後半になってようやくエルガー、ディーリアスなどの作曲家が現れますが、
より本格的かつ多作だったのがこのブリテンです。20代の若さでイギリスを代表する作曲家とみなされており、1940年にはドイツのリヒャルト・シュトラウス、
フランスのイベールらと並んで日本政府から皇紀2600年奉祝曲の委嘱を受けました。反戦主義者で、折しも戦争を避けてアメリカに滞在していたブリテンはこれに対し
「シンフォニア・ダ・レクイエム」を書いて応じますが、内容がふさわしくないとして物議を醸し、演奏は見送られました。
他の奉祝曲はほとんど忘れ去られていますが、ブリテンのこの曲は平和を願う20世紀の名曲として現在も演奏され続けています。
今回は「シンフォニア・ダ・レクイエム」作曲の最中、アメリカのアマチュアピアニストのために書かれた「ソナティナ・ロマンティカ」の中の1楽章をご紹介します。
4楽章からなるこのソナティナ(ソナチネ)の出来にブリテンは満足せず、後年改訂の途中で放棄されましたが、残された改訂稿を元に最初の2つの楽章が死後出版されました。
ここで取り上げたのは第2楽章の「ノクターン」、ブリテンらしい不思議なロマンティシズムが漂う作品です。
モートン・グールド Morton Gould (1913-1996)…生誕100年
アメリカの作曲家、指揮者、ピアニスト。幼時から才能を発揮し、6歳で最初の作品を出版。ニューヨークの音楽芸術研究所(後のジュリアード音楽院)で学び、
大恐慌の最中、映画館のピアニストとしてキャリアを開始。やがて放送業界に入り、テレビ番組で自作を指揮して全米に知られるようになる。
戦後はブロードウェイ・ミュージカル「ビリオンダラーベイビー」、映画「シネラマ・ホリデー」「大西洋二万哩」、バレエ「インタープレイ」などのヒット作の音楽を担当。
ジャズを含むあらゆるポピュラー音楽のイディオムをクラシックの枠組みに落とし込む見事な手腕により、全米のオーケストラや劇場から委嘱が殺到した。
指揮者としてはシリアスなクラシックを好み、1966年にはシカゴ響を振ったアイヴズの交響曲第1番の録音でグラミー賞を獲得。
1995年にはナショナル交響楽団の委嘱による「ストリング・ミュージック」(ロストロポーヴィチに献呈)でピューリッツァー賞を受賞した。
日本ではテレビ「日曜洋画劇場」の旧エンディングテーマ「ソー・イン・ラヴ」の作曲者として知られている。
レナード・バーンスタインをはじめ、アメリカではクラシックと大衆音楽を結びつける才能がたくさん誕生しましたが、モートン・グールドもその一人です。
シリアスな芸術音楽をほとんど書かなかったので、クラシック畑の人間からするとやや馴染みの薄い存在ですが、
当時のアメリカでは高く評価され、多くの栄誉を獲得しました。今回ご紹介する「ブギウギ・エチュード」はアメリカ系のピアニストの間でたびたびアンコール曲として取り上げられる小品ですが、
エチュードというだけあってなかなか難易度の高い作品になっています。